〜俳句と川柳 最終章〜

俳句も川柳も「大衆文学」

 俳句ににしても川柳にしても、其の源を俳諧

 及び連歌に有するから、謂はば同じ血縁関係

 にあるのである。何れもが十七字詩であり、

 大衆文学であるのを見ても直ちにそれと察知

 し得られるであらう。両者の差異を、一言に

 約するならば、俳句は人事をも自然化させよ

 うとする文学であるのに対して、川柳は自然

 をも人事化させようとして発達して来た文学

 であるといひ得る。     

近江砂人著『川柳の作り方味ひ方入門より妙味』より

 砂人の言で、特に傾聴すべきは、俳句と川柳を

「何れもが十七字詩であり、大衆文学である」と

定めている点である。これでよいのである。

「十七字詩」については、草城が、すでに指摘

していたし、いわば自明のことでもある。

 私が注目しているのは、「大衆文学」の方である。

今日、俳人が、あるいは、俳句の読者が、このことを

すっかり忘れてしまっているのである。「川柳」は

「大衆文学」であるが、俳句は高尚なる文芸である、

との思い込みである。・・・・・・・・・・・・・

芭蕉の言葉に「高く心を悟りて、俗に帰るべし」が

あったことを報告しておくだけで十分であろう。

「俗」に帰ってこその俳諧なのである。その流れを

基底部で汲んでの俳句という文芸なのである。砂人

が指摘しているように、俳句も、川柳も二つながら

「大衆文学」なのである。そのことを、俳人も川柳

作者も、そして読者も、しっかりと認識しておかな

ければいけないのである。「川柳への理不尽な評価」

も、案外、俳人や俳句愛好者(読者)たちにおける

「大衆文学」意識の欠如による優越感がしからしめた

ものなのかもしれないのである。

          「俳句と川柳」復本一郎著より



著書から印象に残った箇所を引用させてもらいましたが

私自身も、川柳を俳句と比べて、俳句は文学で、川柳は

くだけた感じの五・七・五の短詩みたいに思っており

ました。「俳句と川柳」読んで、認識が改まり、ます

ます、興味が湧いて来ました。

いろいろな批評やら批判やらあってはいますが、私自身

の考えとしては、四季のある日本で、日本語ならではの

風情ある言葉で、五・七・五という美しいメロディーで

歌を詠む事が出来る事の喜びというのでしょうか?

とっても素敵だなぁ♪と「俳句」にも「川柳」にも今後

親しんで行きたいと思っていますし、サラリーマン川柳

とか、○○川柳とかも楽しんで行きたいです。(*^_^*)

短歌ですが、俵万智さんの「サラダ記念日」を想い出し

ています。凄いブームだったし、彼女の感性に感嘆♪

私も買って読んだものです、爽やかで新鮮でしたね(^.^)


濃いピンクのフクシア