〜俳句と川柳 その5〜

子規にとっての川柳とは?

子規の時代、川柳とは、狂句の時代であった。

そんな中での子規の「川柳」観が、「ほと々ぎす」

に記述されてあるのです。


滑稽も亦文学に属す。然れども、俳句の滑稽と川柳の

滑稽とは自ら其程度を異にす。川柳の滑稽は人をして

抱腹絶倒せしむるにあり。俳句の滑稽は、其間に雅味

あるを要す。故に、俳句にして川柳に近きは、俳句の

拙なる者。若しこれを川柳とし見れば、更に拙なり。

川柳にして俳句に近きは、川柳の拙なる者。若しこれを

俳句とし見れば更に拙なり。


子規は、同じ五・七・五の十七音の文芸である俳句と

川柳との違いを「滑稽」(「笑い」)の質の違いに認めている。

俳句の滑稽は、雅味(上品で風雅な趣き)のある滑稽であり、

川柳の「滑稽」は、人をして抱腹絶倒せしむるような滑稽

だというのである。


川柳が対象としているには、間違いなく庶民生活の喜怒哀楽

であり、子規の指摘のようにそこに「雅味」を見出すことは

確かに困難である。


川柳の「笑い」を考える

・・・・・俳諧文芸と縁戚関係にある「川柳」は、当初から

「笑い」の文芸としてスタートし、川柳作者の間でも、折に

ふれて、そのことが確認されてきた。ただし、それは、決して

子規の言うごときの、人をして抱腹絶倒せしむるような、噴飯

せしめるような「笑い」ではなかった。

一言でいえば、「穿ち」、すなわち世相や風俗を穿つところから

生じる人情味豊かな噛みしめるような、静的な「笑い」だった

ように思われる。・・・・・「俳句と川柳」復本一郎著より


「俳句」と「川柳」どちらもそれぞれの良さを感じます。

「俳句」においては、「俳句」に徹し、「川柳」においては

「川柳」に徹したいものです。


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                    つづく